教会教育講座2005

聖書は何を語るか より)

9. ―旧約聖書の人物像A: 「ヨアシュの生涯からの警告」―

               列王記12章・歴代誌24章

ヨアシュという名前は南王国ユダの第8代の王と北王国イスラエルの第12代の王の二人にみることができる。
今回は南王国ユダの第8代の王ヨアシュに着目してみたい。


1.南王国ユダの第8代の王ヨアシュ

・彼が生まれた時、祖母アタルヤはダビデ系の全一族を殺害して王位に就いたが、
その時ヨアシュは祖母ヨシェバ(大祭司ヨヤダの妻)の機転によって一命をとりとめ、
6年の間神殿にかくまわれて育った。(王下11:1-4

・第7年目に大祭司ヨヤダ(エホヤダ)は兵を起こしてアタルヤを殺害し、
ヨアシュを王とした。(王下
11:9-16、代下23:1-15

・ヨヤダはアタルヤを殺害することによってバアル礼拝廃止に効果をあげ、
ヨアシュが成年になるまで摂政としてヨアシュを助けた。(王下
11:17-20、代下23:16-21


2.ヨアシュの生涯からの警告

1)
a)ヨアシュは祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行なった。(代下24:1-2

  b)ヨアシュは王として優れていただけでなく、神の宮のための活動においても、
彼は長い間、指導的立場を占めていた。主の宮の広範囲に及んだ破損の修理のために、
いつも心を用いていた。その熱心さにおいて、祭司たちをしのぐほどであった。
彼はのんびり構えていた当事者にはっぱをかけ、それによって徹底的な修理がなされた。(代下
24:4-14

c)ヨヤダは長寿を全うし130歳で死んだ。(代下24:15,16)

d)ヨヤダが死んだ後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏し拝んだ。
それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らはその父祖の神、主の宮を捨て、
アシュラと偶像に仕えたので、彼らはこの罪科のため、主の怒りがユダとエルサレムに下った。
(代下
24:17-22

2)
a)祭司ヨヤダが世にあって教えた間だけ主の目にかなう正しい道を歩んだヨアシュ王の話は、
信仰の道を最後の目標まで歩み続けたいと願う人に、重大な警告と戒めを与える。


b)ヨアシュは本来、神の不思議な守りと導きにより暴虐な女王アルタヤの剣を逃れたのであるから、
彼の一生は、当然主に対する感謝で貫かれるべきであった。
また、神のみことばに忠実なヨヤダに教育されるという特権も受けている。
しかし、後に主から離れていった。


わたしたちに対する警告@

神の恩寵のうちに生かされてきたわたしたちには二重の責任がある。

・主のもとにとどまること。
・正直で従順な歩みによって主を賛美する力を、日ごとに主に求めること。

c)ヨシュア王は在位23(12:7)の時には、まだ正しい道にあった。
その
後、離反の時が来た。神の栄光のために何十年も生きてきた人が、
その後罪
に陥り、徒党を組んで襲ってきた家来たちに打ち殺されるという
悲しむべき
人生の終末を迎えなければならなかった。(24:23-26)

わたしたちに対する警告A

何年もの間、何十年もの間、神の道を歩んできた全ての人に対して、
常に目を覚まして祈り続けなさいという神からの呼びかけを無視してはならない。


わたしたちは、ヨアシュ王の話から何を学ぶことができるだろうか。
他人を励ましてきたヨアシュが後に背教者となった。
彼は神のことに熱心であったにもかかわらず、自分自身の事を神に固く結びつけることに失敗した。
彼の陥った過ちは、わたし達に「他の人を戒めたり励ましたりする前に、
自分自身のたましいのことに心をくばりなさい。」と警告する。
新来者に対する配慮、心配りも必要な事かも知れない。
しかし、まず自分自身のたましいのことに心を配る姿勢を持ち続けること
それが新来者に対する最大の歓迎であることをもう一度考えたい。


・ヨアシュの離反と無定見の最も深い理由はどこにあるか。
すばらしい彼のすべての体験、数十年にも及ぶ敬虔な歩み、主の宮のための熱心な働き、
これらすべてが後退し、挫折してしまった。
わたし達は、彼が敬虔な人に対する依存から、神ご自身に対する真の依存
移って行けなかった姿を見る。
彼は、自分の生命と王位の全てをヨヤダに依存し、心から師として仰いでいた。
しかし、師を飛び越えて
自分自身を神に固く結びつけることに失敗した。

わたし達は人を通して神を見るのではない。

主イエスを通して
自分自身を神に固く結びつける姿勢を持ち続けたいと願う。




P.S

先週、ヤコブの信仰を通して、まだまだ、成熟した人間への道の希望を捨てないで
られそうだとの思いをいだいたことと思う。

神のことばの影響下に我々の発言がなされること、
神の戒めにかなう行動を行なっている時に他に対しての説得力があること、
などはこれからでもなんとかなりそうだとの思いをいだく。


しかし、ヤコブがその激しい経験を通しての神の恵みを確信をもってあかししたことのような
あかしを自分はもっていないとの思いが一方ではあったのではないだろうか。


もう一度しかし、今日のヨアシュの信仰の姿を通し、わたし達は大きなあかしを
与え
られていることに気がつかされるのではないだろうか。

今日でも、人気のあるカルスマ性を備えた説教者を通して神をみるという姿勢は、
く見かけることである。
あの先生がいなくなったらどうなるだろうという教会も目に
する。


しかし、この原町田教会の教育講座に出席している一人一人は、
ものの見事にそ
の信仰の歩みを異にしている。
狭い日本のキリスト教界の中であるにもかかわらず、過
去の信仰生活において、
その接点を見出すことは難しい。
それぞれが、その信仰生活を
振り返れば、自分自身の主体的な信仰を求めての旅をして
今日の原町田教会にたどり
ついたのではないだろうか。本当の教会ってこんなものじゃない、
本当の信仰ってもっ
と自由であっていいのではないか、そんな思いを持ち続けての
旅ではなかったか。

従っ
て、この原町田教会に来た当初はそれぞれが皆、慎重であった。
自分はクリスチャンで
あるから、礼拝はきちっと守りたい。
しかし、ぎりぎり礼拝だけは守るようにしよう。

人間関係の複雑さは遠慮したい、自分の信仰の主体性だけは守っていきたい、
自分の家
庭の信仰の主体性だけは守っていきたい、
そんな思いの中ですごした原町田教会での教
会生活が、いつの間にかどっぷりと
原町田教会の中に浸かりこんでいる自分の姿に気が
付かされるのではないだろうか。

それは、それぞれまったく違った信仰生活を送ってきた者同士が、
それぞれの主体
的な信仰を持った上でcollabolationとしての教会生活を送ることを
保障されているこ
とを経験的に感じ取ってきたからではないだろうか。
ここに集まった一人一人が、いつ
でも自分の意思で教会から離れることが出来た、
あるいは信仰から離れることができた
中で、神がとららえてくださったからこそ
長い信仰の旅をおくれたし、これからもとら
えて下さるとの確信を持つことができる。
そのことを家族の者に、そして周囲の者にあ
かししていくことができるのではないだろうか。




次回は 7月17日(日) 新約聖書1 その全体像1


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